2012.2.19 2011.7.31  2010.8.11 2009.11.1 初版

JAL123便 日航機墜落事故の真相


【追記】2010.8.11
JAL123便、ボイスレコーダの内容と飛行経路情報で、検証した動画

※このページはhttp: //www.fims.co.jp/fumitaka/osutaka.pdfファイルからできるだけ忠実に引用したものです。なお、著者の承諾手続きは まだ致しておりません。
残念ながら、アクセスできなくなってしまいました。

JAL123便 日航機墜落事故の真相 目次

1.御巣鷹山飛行機事故の真相 .............................1
2.後部圧力隔壁破損は起こっていない.......................2
3.事故調が隔壁破損に執着する理由.........................3
4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説...................4
5.謎の飛行物体はSSM−1である.........................6
6.衝突6分前から気付いていた操縦クルー...................7
7.東京航空管制はどう受け止めたか.........................8
8.スコーク77と自衛隊機のスクランブル...................10
9.なぜ横田基地着陸阻止になったか.........................11
10.墜落場所は早くからわかっていた......................13
11.自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか....................14
12.特殊部隊は墜落現場で何をしたか......................15
13.生存者の一人・落合由美さんの証言....................18

   1.御巣鷹山飛行機事故の真相

池田昌昭著
『JAL123便は自衛隊が撃墜した』/文芸社刊


思わずギョッとするようなタイトルです。タイトルを見る限りキワもののように見えます。しかし、実はこの本は2冊目であり私がEJに取り上げる直前にさら に3冊目が出版されているのです。そして、2001年7月に4冊目が出ています。内容はキワものではなく、事実に基づいて記述されています。

関連書籍については、あとでまとめてお知らせしますので、まずはEJのレポートを読んでいただきたいと思います。読み進めるにしたがって、池田氏の2冊目 の本のタイトル『JAL123便は自衛隊が撃墜した』という結論に近づくのかどうかです。

photo1

1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したのですが、午 後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である御巣鷹山に墜落――乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、505人の乗客と15人の乗員は還 らぬ人となったのです。

問題は事故の原因です。当時の運輸省航空事故調査委員会は結論として、次のように述べています。
報告書はもっと詳細なものですが、重要な部分のみ書きます。

機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、御巣鷹山に墜落したものである ―――運輸省航空事故調査委員会の報告書より

大きな疑問点は、次の3つがあります。

1.圧力隔壁は何によって破壊されたか
2.機内急減圧が本当に起きているのか
3.墜落場所がなぜ御巣鷹山になったか
事故調査委員会は、機体後部の圧力隔壁が破壊された原因について、「疲労亀裂の進展で残留強度が著しく低下したため」としています。JAL123便は、垂 直尾翼が3分の2も損傷しているのです。航空機の垂直尾翼は非常に頑丈なものであり、簡単に破損するものではないのです。機内与圧空気の急激な噴流などで 壊れるものかどうかは疑問です。

事故調査委員会は、機内与圧空気の急激な噴流が尾翼破壊の原因という説を正当化するために、圧力隔壁の破壊を後からつけたのではないでしょうか。

もし、与圧空気の噴流が頑丈な垂直尾翼を吹き飛ばすほど強いものであったなら、機内にはその空気抜けによる急減圧が起きているはずなのです。何しろ高度 24000フィート(7200メートル)で起こったことなのですから、機内の人たちは大変なことになっていたはずです。

しかし、生存者の証言を調べても、そのような急減圧は起きているフシはないのです。事故調査委員会も急減圧の起きていないことは一応認めており、これを解 明できない未解決事項としているのです。

垂直尾翼が破壊された原因を常識的に考えると、何らかの飛行物体が尾翼にぶつかったのではないかということになります。疲労亀裂で圧力隔壁に穴が開き、内 部の空気の墳流によって尾翼を飛ばしたという説明はかなり苦しいのではないでしょうか。
そして、3つ目の疑問は、なぜ航路から大きく外れた御巣鷹山に墜落したのでしょうか。途中で操縦不能になり、ダッチロールによって御巣鷹山まで行ってし まったという説を信じている人は多いのですが、御巣鷹山に行く必然性がないのです。

このように、事故から17年を経過しても、なお不明なことがあまりにも多いのです。これら多くの疑問点にひとつずつメスを入れていくことにします。


   2.後部圧力隔壁破損は起こっていない

JAL123便は、疲労亀裂の進行によって後部圧力隔壁に穴が開き、機内与圧空気の噴流によって垂直尾翼の3分の2を損傷して操縦不能に陥ったとされてい ます。高度2万4000フィート(7200メートル)の上空でこれは起こったのです。

しかし、この場合、機内は気圧が急速に下がって、もの凄い風が機内を吹き抜けるはずです。ところがJAL123便の場合、そういう急減圧は起こっていない のです。

実は、御巣鷹山事故後の1986年10月26日、タイ航空のエアバスA300型機が土佐湾上空を通過中、ある乗客が手榴弾をトイレで爆発させるという事件 が起こったのです。

このときは後部圧力隔壁が破壊されて、急減圧が発生したのです。操縦士はすぐに急減圧の発生を認識し緊急降下しています。

機内与圧空気は、機内を強い風となって通り抜け、最後部にある洗面所の化粧台を倒壊して、圧力隔壁後方へと抜けたのです。

これによって搭乗者247名中89名(36%)が航空性中耳炎になり、「ツーン」とする耳の痛みを訴えています。乗客が写した機内写真によると、落下した 酸素マスクと、床に散乱した無数の荷物が写っています。
これは、明らかに減圧現象を示しているのです。乗客の証言によると、「風が前から後ろに向かって、『ブァー』と入ってきた。そして飛行機が『バァー』と下 に降りた」といっています。

しかし、JAL123便では、急激な機内空気の後方への流れも、飛行機の急降下も起きていないのです。
しかし、事故調査委員会の報告書では、JAL123便では、客室後方への風速は1秒間にほぼ10メートルだったと計算しています。

事故調査委員会のいうように、1秒間に10メートルの風が本当に客室後方に噴き抜けたとすると、JAL123便の機内は相当ひどい状態になるはずなので す。元日本航空のパイロットである藤田日出男氏らの計算によると、JAL123便の場合は、荷物が飛んだタイ航空エアバス機の3倍以上になるというので す。

その風の勢いは、荷物どころか乗客まで後方に噴き飛ばしてしまうはずなのです。しかも、後部圧力隔壁が破損し、垂直尾翼の3分の2が噴き飛んだとすれば、 乗客や荷物は機外に吸い出されてもおかしくはないのです。

しかし、実際のJAL123便の機内では、たまたま乗客として搭乗していて助かったスチュワーデス落合由美さんの証言によれば、機内の乗客・乗員はいたっ て沈着・冷静であり、一瞬白い霧状のものが発生したが、それもすぐに収まったというのです。

つまり、事故調査委員会の報告書にある機内の空気の流れなどはなかったのです。また、酸素マスクは降りてきたが、機内の急減圧現象はなく、機内は落ち着い ており、操縦クルーも機の急降下操作を行っていないのです。

落合由美さんは次のようにいっています。

そろそろ水平飛行に移るかなというとき「バーン」という、 かなり大きい音がしました。テレビドラマなどで、ピストルを撃ったときに響くような音です。『バーン』ではなくて、高めの『パーン』です。急減圧がなくて も、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異状はまったく何も感じませんでした。(一部省略)

『パーン』という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。・・・直ちに「ただいま緊急降下中、マスクをつけてください」という録音されてい るアナウンスが日本語と英語で流れました。
―――落合由美さん

このとき、乗客はお互いに教えあってマスクをつけたそうですが、パイロットたちはマイクをつけていなかったのです。それは地上と交信するときの彼らの声が くぐもっていなかっとたことからもわかるのです。それは、そのとき機内で急減圧が起きていなかったことの証明であり、事故調査委員会のいう圧力隔壁の破損 はなかったことを意味するのです。

もし、高度2万4000フィートで急減圧が起こると、物理的に酸素が不足し、動脈血の酸素飽和度が70%を切るため、直ちに安全高度1万3000フィート までの降下が義務づけられているのです。しかし、JAL123便は、高度2万2000フィートへの降下を要求したのみで、そのまま約18分間もその高度で 飛び続けています。

急減圧が起きた状態では、18分間も酸素マスクなしでジャンボ機を操縦することは不可能なのです。その状態では、人間は意識が朦朧として動作できなくな り、判断力が極度に鈍ってしまうからです。

このような状態から見て、JAL123便の垂直尾翼破損の原因が機内にあるという内部説(事故調の結論)は無理があり、何らかの飛行物体が尾翼に衝突した という外部説が正しいということになります。しかし、事故調査委員会は外部説をとことん否定しているのです。何かおかしくはないでしょうか。

『パーン』と音がしてから32分間、酸素マスクが降りてから18分間――高度を2万2000フィートに下げただけで、パイロットたちは一体何をしていたの でしょうか。

飛行機が垂直尾翼を3分の2も破損されると、飛行はきわめて不安定になり、ダッチロール状態になります。これをパイロットたちは、エンジンの出力調整で何 とか克服し、横田基地への着陸姿勢をとりつつあったのです。このことは、もっとあとで明らかにしたいと思います。

以上のことからも明らかであるように、事故調のいう後部圧力隔壁の破損はほとんどなく、機内の急減圧はなかったのです。パイロットたちは、何によって尾翼 が破壊されたかがわかららないまま何とか機体を立て直すことに全力を注いだのです。

それにしても、事故調は、なぜ、何かが尾翼にぶつかったという外部原因説をとろうとはしないのでしょうか。どんな矛盾があろうとも、今もって内部原因説を 捨てていないのです。


   3.事故調が隔壁破損に執着する理由


JAL123便の機内に、「急減圧」があったか、なかったかは、事故のあと、大きなテーマとなって、いろいろなところで実験が行われています。その結論と して急減圧はなく、したがって後部圧力隔壁の破損もなかったということがいえるのです。

しかし、事故調査委員会は「後部圧力隔壁破損説」をいささかも譲ろうとはせず、再調査もしないまま、事故後17年が経過しているのです。

急減圧がなかったいう根拠についてまとめておきます。根拠は4つあります。

1.JAL123便は、規定の急降下をしていない
2.酸素マスクは降りたが、クルーは使っていない
3.墳流で乗客も荷物も噴き飛んでいる様子はない
4.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない
第1の根拠は、JAL123便のクルーは、機を急降下させていないことです。機内に急減圧が発生すれば、直ちに急降下を行うことが義務づけられているので すが、JAL123便は高度を2万2000フィートに下げる許可を求めただけで、急降下させていないのです。それは、急減圧がなかったことを意味している ことになります。

第2の根拠は、酸素マスクが降りてきたにもかかわらず、パイロット・クルーはそれを着用していないことです。これは、マスクをつけなくても操縦ができたこ とを意味しており、これも急減圧がなかったことを意味しています。

それに酸素マスクが降りたのは、急減圧のせいではなく「ドーン」という何かがぶつかった衝撃によって降りてきたのではないかともいわれているのです。

第3の根拠は、墜落前の機内写真によると、酸素マスクは降りているものの、比較的機内は整然としていることです。もし、本当に急減圧が起きていれば、乗客 や荷物が後ろに噴き飛んで大混乱になっていたはずなのに、そういう状況は見られないのです。

ボイスレコーダーにも、それをうかがわせるものはいっさい入っていないのです。

第4の根拠は、生存者の落合由美氏の証言でも急減圧は起きていないのです。乗客は降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかったと落合氏は証言して います。事故機の機内にいた人自身がそう証言しているのですから、これ以上確かなことはないはずです。

しかるに、事故調査委員会は、それでも後部圧力隔壁の破損の一点張りなのです。それにJAL123便の過去の事故を持ち出して正当化しようとしているので す。

JAL123便は、JA8119機というのですが、墜落事故を起す前に、2つの事故を起しているのです。事故調査委員会はこの事故と後部圧力隔壁破損を結 びつけているのです。

1978年6月2日 ・・・ 大阪空港でのしりもち事故

1982年8月19日 ・・・千歳空港の滑走路での事故

JA8119機は、1985年8月12日の墜落事故の7年前の6月2日に、大阪空港において「しりもち事故」を起しています。着陸のさいに進入角度を大き く取りすぎ、尾翼付近の機体底部を滑走路に接触させ、その部分が幅約1メートル、長さ約17メートルにわたって破損しています。

このときは、ボーイング社から修理チームが来日し、圧力隔壁の下半分を取り替えているのです。墜落事故後のボーイング社の話によると、圧力隔壁には亀裂が 入っていたので後部全体を取り替えており、新品同様であるといっているのです。しかし、事故調査委員会は、このとき隔壁の上部を取り替えていないことが、 今回の事故の原因と見ているようなのです。

もうひとつの千歳空港の事故は、墜落事故の3年前に起きています。千歳空港に着陸するさいに、右第4エンジンを滑走路に擦っているのです。それにしても、 よく着陸ミスを起す飛行機であるとはいえると思います。しかし、この事故は墜落事故には直接関係ないとされています。

墜落事故の7年前の大阪空港のしりもち事故で後部圧力隔壁を修理したという事実は、操縦不能になった原因をその圧力隔壁破損にあるとするのには格好の根拠 として使えることは確かです。
ボーイング社の修理ミスのせいにするためにも、その方がプラスと判断したのでしょうか。

ちなみに「隔壁」とは、強度の強いアルミ合金製であり、円錐構造の機体におわんのように嵌め込まれているのです。したがって、しりもち事故のさい、その衝 撃は下方部分だけでなく、上方部分にも及んでいるはずとする主張には一理あるのです。しかしだからといって、それが操縦不能の原因として断定することは、 困難であるといえます。状況的には、機内に急減圧は起きておらず、圧力隔壁は破損していないという証拠が、大勢を占めているからです。

このように、JAL123便が操縦不能になった原因については数多くの疑問があるのです。そのため被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要 求を提出したのですが、事故調査委員会はこれを完全に無視し、それどころか、JAL123便墜落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にし てしまっているのです。

事故の真の原因を徹底的に究明することなく、大きな矛盾のある事故原因であくまで押し通し、あまつさえその証拠となる書類をすべて廃棄処分にする――考え られないことであり、許されないことであると思います。

さて、圧力隔壁の破損がないとすると、JAL123便は何によって操縦不能となったのでしょうか。次章からは、外部原因説について分析を進めていきたいと 考えています。

   4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説


JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が3分の2程度破壊されたことにあります。
事故調査委員会は内部原因説を結論としていますが、ごく素直に考えれば、何らかの飛行物体がJAL123便の尾翼に衝突したのではないかということを疑う のが自然であると思います。

しかし、高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼にぶつかるものといったら、何があるでしょうか。それは、飛行機かミサ イルのようなもの以外は考えられないのです。

飛行機は考えられないので、ミサイルのような謎の飛行物体ということになるのですが、場所は相模湾上空であり、もっとも飛行機の往来の多いところなので す。なぜ、そのような物騒なものが飛んでくるのでしょうか。普通では考えられないことです。

しかし、ひとつだけ気になることがあります。それは、JAL123便の墜落事故が起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」 が試運航中であったことです。
護衛艦は、昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的なのです。

当時「まつゆき」といえば、最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦であり、実験項目もかなりあったと考えられます。「まつゆき」の任務は、来 襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することにあり、当時のこの軍事技術が後のイージス艦の開発につながっていくことになります。

この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つの です。

ここで、1985年当時の日本の防衛に関する状況を振り返っておく必要があります。1985年といえば、時の総理大臣中曽根康弘氏が米国で「日本列島は不 沈空母」と発言して、大騒ぎになっていたときです。
米国がレーガン政権のときの話です。

当時の中曽根内閣は、国防政策の中身として、武器輸出三原則や軍事費のGNP1%枠を撤廃し、世界最先端軍事技術を米国の監視のもとで自主開発する国防政 策を推進したのです。その具体的な目玉は、国産巡航ミサイルの開発だったのです。そして日本は、独自に光学ミサイル管制技術を開発したのです。

米国はこの日本の技術を自国の巡航ミサイルの中心部分に組み込み、あの「トマホークミサイル」を完成させたのです。レーガン政権は、日本に対し、石油資源 のルート確保を担わせるため、シーレーン防衛の名のもとで、日本の自衛隊を強化しようとしていたのです。そして、とくに日本に求めた技術開発は、ミサイル 誘導装置の開発なのです。

このミサイル誘導システムの精度をチェックするために使われるものに「無人標的機」というものがあります。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の 垂直尾翼にぶつかったのは、この無人標的機ではないかといっているのです。

「無人標的機」には、次の3種類があります。

1.高速無人標的機「ファイア・ビー」
2.高速無人標的機「チャカ(CHUKAR U)」
3.対空無人標的機「ターゲット・ドロン」
第1の「ファイア・ビー」は、長さ7m、幅3.93m、高さ2.25m、重さ686.3キロで、最大速度0.96マッハで実用上昇限度1万7000m、航 続時間は約60分です。事故発生時の高度7200mにゆうゆう届くのです。操縦方式は、無線コマンド・コントロールです。

第2の「チャカU」は「ファイア・ビー」を小型化した対ミサイル用標的機です。長さ3.87m、幅1.76m、高さ0.71m、時速350〜900キロ、 高度150〜9000m、重さ182キロ、航続時間約80分です。これもJAL123便に届くのです。訓練支援艦「あずま」の管制システム「艦上追尾管制 装置」によって飛行をコントロールするのです。

第3の「ターゲット・ドロン」は、長さ3.8m、幅4.03m、高さ0.79m、重量162キロ、航続時間約90分、母艦艇からジャトーにより発射され、 UHF、FM方式の電波でリモコンされて飛行するプロペラ機なのです。

垂直尾翼を壊したのがこれらの標的機であるとした場合、3つの標的機のうち、どれがJAL123便の垂直尾翼に衝突したのでしょうか。

まず、はっきりしていることは、プロペラ機である「ターゲット・ドロン」ではないということです。そうすると、「ファイア・ビー」か「チャカU」というこ とになりますが、「チャカU」は、JAL123便の垂直尾翼を壊すには、重量的に軽過ぎると考えられます。

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この点、「ファイア・ビー」は重量が686.3キロありますので、JAL123便の垂直尾翼を破壊する力は十分あります。したがって、もし、標的機が犯人 であるとした場合、「ファイア・ビー」である可能性が高いことになります。

しかし、無人標的機「ファイア・ビー」をリモート・コントロールするには、海上自衛隊の訓練支援艦が必要なのです。事故当時は、訓練支援艦は「あずま」の みが実在していたのですが、当日「あずま」は、呉港に繋留されていたのです。したがって、当日は「ファイア・ビー」を飛ばせることはできなかったのです。

それに「ファイア・ビー」については、航続距離や民間航空路線の関係から相模湾ではできないことになっているのです。つまり、アリバイがあるわけです。

そこで、事故の起こった時刻に、その空域――関東南A空域にどのような航空機がいたのか詳細に調べたところ、気になる航空機が多く存在していたことがわ かってきたのです。

   5.謎の飛行物体はSSM−1である


JAL123便が事故時刻に飛んでいた空域は、「関東南A空域」と「関東西空域」の2つです。それぞれの空域にその時刻にどのような航空機がいたかを調べ た記録があります。

≪関東南A空域≫≪関東西空域≫

1.全日空トライスター 8.全日空ボーイング747
2.全日空YS11 9.全日空トライスター
3.日航ボーイング74710.日航ボーイング747
4.東亜国内航空DC9 11.ノースウエスト航空
5.ビーチクラフト機12.大韓航空
6.米軍機C―130(11と12の機種はいずれも
7.自衛隊機C−1ボーイング747)

このほか、関東西空域に米軍機がもう1機存在していたのですが、位置や高度などは不明です。この中で注目すべきは、自衛隊機C−1です。C−1は、人員や 兵器を輸送するずんぐりとした航空機なのですが、外形はこれとそっくりのEC−1という航空機があるのです。

EC−1は、C−1を電子戦用に改良したもので、所属は岐阜の航空実験団です。この航空実験団というのは、航空機および搭載装備品、支援機器、電子機器、 兵装などの試験・評価と、これらの基礎的な運用、研究、開発をやっているのです。諸般の情勢から考えて、この空域にいたのは、C−1ではなく、EC−1で あると考えられます。

重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC−1は納入前のテストをしており、試験飛行をしていていたこと、それに護衛艦「ま つゆき」も納入前の試運航をしており、EC−1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産として未登録であったことです。

国有財産でない場合は、所有権は製造会社側にあるので、これらの航空機や艦艇が実際にやったことの報告義務から法的には免れることになります。実際に何が 行われたかを究明するのは非常に困難になるのです。

訓練支援艦「あづま」が8月12日に呉港にいたことによってJAL123便の垂直尾翼に衝突した謎の飛行物体は「ファイア・ビー」でないことは確かです。 なぜなら、「ファイア・ビー」は、訓練支援艦がいないと飛行させることができないからです。

そこで、謎の飛行物体として現在考えられているのは、1985年当時鋭意開発が進められていた沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM−1」のプロトタイプ、 すなわち、爆薬を搭載していない演習用ミサイルではないか――と考えられるのです。

2月25日に北朝鮮が発射した「シルクワーム」も、沿岸の艦艇を攻撃する地対艦ミサイルですが、SSM−1はより性能が高く、かなり長い射程でミサイルを 発射し、管制できる巡航ミサイルなのです。

JAL123便墜落事故の3年前の1982年、アルゼンチンとイギリスのフォークランド紛争が勃発したのですが、アルゼンチン空軍の「シュペル・エタン ダール」機が放ったフランス製ミサイル「AM39エグゾセ」が、イギリス軍のミサイル駆逐艦、「シェフィールド」(3500トン)を轟沈し、世界の軍事関 係者に衝撃を与えたのです。これは、空対艦ミサイルですが、これが刺激となってSSM−1の開発に拍車がかかったのです。

SSM−1は、地上基地、陸上移動発射台、あるいは航空機からでも発射できる巡航ミサイルで、その飛行モニターを空中では電子戦機EC−1、海上では護衛 艦「まつゆき」が実施する――これなら、ミサイルの発射実験は可能なのです。

そして、同時にその空域にいた米軍のC−130やもう1機の米軍の正体不明機も、日本の巡航ミサイルの発射実験をモニターしていたと考えられます。米軍 は、民間機、軍用機を問わずコックピットと管制塔との交信すべてを傍受するシステムを敷いているからです。その証拠に、所沢市の東京航空交通管制部(東京 ACC)のすぐ隣りに米軍の通信傍受施設があるのです。

その国産巡航ミサイルの飛行実験が何らかのアクシデントで、演習用ミサイルをコントロールすることができなくなり、民間航空機の空域に入り込んでしまい、 JAL123便の尾翼に衝突したのではないか――と一応考えられるのです。

JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度1500フィート付近は、R116という自衛隊の演習区域になっているので す。雫石で全日空機が自衛艇のF86F戦闘機と衝突して墜落したのも、自衛隊機が民間航路へ侵入した結果なのです。けしからん話ですが、自衛隊戦闘機パイ ロットの中には、民間航空機を敵機とみなして訓練する者もいるということです。

さて、護衛艦「まつゆき」には、艦対空ミサイル「短SAMシースパロー装置」が搭載されています。1985年8月12日に「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で 試運航中であったのですが、当然、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中についてのテスト訓練をやっているはずです。したがって、そういう飛 行物体が民間航空路に迷い込む可能性はゼロではないのです。

しかし、爆薬の入っていない巡航ミサイルが「まつゆき」から打ち上げられたのか、内陸部の車両発射台から打ち上げられたのか、もしくは航空機から発射され たのかは、わかっていないのです。巡航ミサイルであれば、自衛隊の東富士演習場から打ち上げられ、富士山を迂回して、相模湾上空でJAL123便に遭遇す るということも、十分考えられるのです。

ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがあるのです。事故調査委員会はそういう事実も 知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまったのですからよほど外部からの飛行物体の存在を隠したかったのでしょ う。

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   6.衝突6分前から気付いていた操縦クルー


JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたのではないかと思われるフシがあります。今朝はここからはじめます。

JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と 江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく 瞬間だそうです。

そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」

それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。こ の写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。

その前後のコックピットと客室とのやりとりなどの状況を整理しておきます。

18:12:20・・・羽田空港を離陸
18:18:00 ・・・ 謎の飛行物体操縦クルー視認 小川氏が謎の飛行物体を撮影
18:23:00・・・ベルト着用指示
18:24:15・・・ 客室乗務員とのやりとり
18:24:35・・・ドーンという爆発音
18:24:42・・・スコーク77を発信
JAL123便の操縦クルーが謎の飛行物体を認めた午後6時18分の時点で飛行機は水平飛行に移っており、ベルト着用のランプは消えていたはずです。しか し、23分になって再びベルト着用のランプがついたので、24分にスチュワーデスが、「(トイレにいき)たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいで しょうか」とコックピットに許可を求めています。

そのとき、副操縦士は次のように応答しているのですが、声は上ずっており、内容もかなりおかしかったのです。

「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」――副操縦士

副操縦士の物言いは明らかにていねい過ぎますし、ボイスレコーダーに残されたその声を周波数分析した結果、緊張度が非常に高いことが分かったのです。ス チュワーデスの声が正常値の3であるのに対し、副操縦士の声の緊張度は7と明らかに異状に高い緊張度を示しているのです。

この分析方法は、航空自衛隊航空医学実験隊が開発したものでパイロットの「音声基本周波数」(1秒間の声帯振動数)をボイスレコーダーから抽出し、緊張状 態との相関関係を推定する方法なのです。

ここで注目すべき事実があります。謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18時18分時点の飛行機の高度は、1万1300フィート(3440メートル)なの ですが、謎の飛行物体が尾翼に衝突した18時24分35秒時点の高度は、2万3900フィート(7170メートル)であることです。つまり、6分間に1万 2600フィート(3780メートル)も上昇しているのです。

この2万3900フィートという高度は、ジャンボ旅客機が水平飛行に移ろうとするときの高度なのです。JAL123便は、6分間も謎の飛行物体に追い掛け 回されていたことを意味するのです。何かが飛んできて偶然にぶつかったという状況ではなく、その飛行物体は執拗に飛行機を追尾しているのです。

このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであるといえます。標的が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い 詰めて標的の後ろに回ろうとします。その結果がJAL123便の垂直尾翼破壊だったのです。

最初謎の飛行物体は、コックピットの右サイドで視認されています。つまり、JAL123便よりも前の方を飛んでいたことになります。そのあと、飛行機の右 後ろに回り、そこから垂直尾翼に衝突しているのです。

謎の飛行物体が国産の巡航ミサイルSSM−1であるとするとなぜ、そのようなものを民間航空機が数多く通る空の銀座通りといわれる相模湾上空で飛ばしたの でしょうか。場所といい、時間といい、自衛隊は軽率のそしりを免れないでしょう。

巡航ミサイルSSM−1は、攻撃してくるミサイル迎撃のための半導体レーザー結合光ファイバー画像解析装置を搭載しています。光学センサーでミサイルや戦 闘機を瞬時に識別し、最適攻撃手段を選択できる当時の最先端技術です。

それならば、なぜ、民間航空機であるJAL123便を識別できなかったのでしょうか。当然識別できるはずですし、まして、地上、海上、航空での管制システ ムによって動くのですから、JAL123便が識別できないはずがないのです。

地上の管制システムは、巡航ミサイルSSM−1が先端部に搭載したシーカーによって民間機JAL123便の画像情報をSSM−1を経由して捕捉していたは ずです。それなのに、なぜ衝突を回避できなかったのでしょうか。なぜ、自爆させるなどの処置がとれなかったのでしょうか。管制システムに突如故障が生じた のでしょうか。

考えられることは、SSM−1搭載コンピュータに民間機識別情報が入力されていなかったことです。演習用なので、すべての航空機を敵機とみなすようになっ ていたのではないしょうか。

衝突後、JAL123便の機長は7秒後に「スコーク77」を発信していますが、これについては次の章で取り上げます。

   7.東京航空管制はどう受け止めたか


JAL123便の垂直尾翼に演習用巡航ミサイルSSM−1がぶつかったのを知って機長はその7秒後に「スコーク77」を発信しています。

この「スコーク77」は、国際緊急無線信号であり、めったなことでは使わない信号なのです。仮に事故調のいうように、圧力隔壁の破損が原因で尾翼が破壊さ れた場合、「ドーン」という爆発音が聞こえた18時24分35秒の時点では、コックピットの中では何が起こったのかわからなかったはずです。

そういう状況において、まして「ドーン」という音が聞こえた7秒後に「スコーク77」を発信することはあり得ないのです。

操縦クルーたちは、謎の飛行物体に6分間もつけまわされていたからこそ、「ドーン」という音が聞こえたとき、その飛行物体が垂直尾翼にぶつかったと確信し て、「スコーク77」を発したのです。「スコーク77」は、飛行機が他から攻撃されたようなときに発信する緊急信号だからです。

「スコーク77」を発信させたJAL123便は、墜落したと見られる午後6時56分26秒までの間に、次の4つと交信しています。数字はその通信回数で す。

東京航空管制羽田航空管制横田基地日航羽田無線
28 8139


JAL123便が最初に交信をしたのは、所沢にある東京航空交通管制部(ACC)です。この東京航空管制の立場に立って、作家の山崎豊子氏は、『沈まぬ太 陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)において、次のように記述しています。この本では、JAL機のことをNAL(国民航空)と表現していますが、ボイスレコー ダーに基づいて記述されており、その内容は正確です。

午後6時24分40秒――、突然、関東南A空域のレーダー 画面に、EMG(緊急事態)の赤い文字が点滅し、ピーピーと金属音を帯びた警報が鳴った。(一部略) 何が起こったのだろうか――、ヘッドセットをつけ、口元に のびた小さなマイクに向かって、直接、交信している管制官の耳に、国民航空123便の機長の声が飛び込んで来た。
25秒20秒
NAL「アー、東京管制部、こちらNAL123便、緊急・・トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートまで降下する、どうぞ」
管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り承認します」
NAL「大島へのレーダー誘導をお願いします」
管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
NAL「右旋回に移っています。どうぞ」
管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘導します」
―――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)

しかし、この時点では、東京管制部では、JAL123便のトラブルの内容はわかっていなかったのです。
急病人が出て羽田に戻りたいのか、それともハイジャックされたのか、管制部としてはいろいろ考えたそうです。

しかし、右旋回するといったJAL123便は、一向に方角を東に変えず、そのまま、西に移動しており、高度も下がっていないので、不審に思った管制部は、 JAL機に連絡をとります。ここも山崎氏の小説から引用します。

27秒02秒
管制部「NAL123便、確認しますが、緊急事態ですね」
NAL「その通りです」
管制部「123便、了解、緊急事態の内容を、知らせてください」
NAL「・・・(応答なし)」
28分30秒
管制部「NAL123便、磁方位90度で飛行せよ、大島レーダー誘導です」
NAL「しかし、現在、操縦不能」


――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)

操縦不能――緊急事態の第1報がこれなのです。それでいて、2万5000〜4000フィートの高度を保っている――これは管制官にとっては初体験だったと いいます。まして、JAL123便はボーイング747、安全度が最も高い飛行機だったのですから尚更のことです。

そのときJAL123便は静岡の焼津付近に達しており、なお西に向かっていたのです。近くには、自衛隊の浜松基地があるのですが、滑走路が短くジャンボ機 の着陸は無理なのです。それなら名古屋空港へ行った方が早い――管制官はJAL123便に連絡をとろうとしたとき、JAL123便の高度が一定しなくなっ ているのに気がつきます。1万5000〜1万2000フィートの間を上下し出したのです。いわゆるダッチロールです。
管制官は、JAL123便に連絡を取り、名古屋に着陸できるかと聞いています。しかし、JAL123便の機長は、あくまで羽田着陸を主張したというので す。
そこで、大島通過の報告をしてきた米輸送機C−130が横田基地への着陸を求めてきているのにスタンバイの指示を出し、JAL123便の航路を最優先に確 保しようとしたのです。
ちょうど、そのときJAL123便は、垂直尾翼を飛ばされながら、操縦を何とかコントロールして、羽田に戻る体制を確立しようとしていたのです。驚くべき 操縦技術です。

   8.スコーク77と自衛隊機のスクランブル


「スコーク77」は、単なるエマージェンシー・コールとは異なるようです。これに関する限りあまりにも情報がないので、ある程度推測するしかないのです が、とくに、「スコーク77」を発信すると、なぜ自衛隊の軍用機がスクランブルをかけてくるのかということがいまひとつ理解しにくいと思うので、池田氏の 本をベースにして説明します。

昨日ご紹介したICAO(国際民間航空機関)条約「付属文書2」というのは、日本が支配する空域において、民間機が何かに要撃された場合の自衛隊機の対処 法が決められているのです。というよりも、日本の空域において民間機が何かに要撃されることは想定しにくいので、日本の領空を侵犯してきた航空機に対する

自衛隊機の対応を民間機要撃のケースにそのまま適用しているというべきです。

日本は、米国と日米安全保障条約を締結しており、当然のことながら、これは米軍と無関係ではありません。歴史を遡ると、領空侵犯機に対する対応は、 1959年9月2日に、当時の米軍第5空軍司令官ロバート・バーンズ中将と日本の航空自衛隊総司令官松前未曾雄空将との間で締結された「松前・バーンズ協 定」にたどりつくのです。これによると、日本の航空自衛隊は、米国第5空軍の「交戦準則」をもとに規定を作っているのです。何もかも米国任せのこの国の姿 勢を示していると思います。

それにしても、日本の領空で民間機が何かに要撃されたとき、その民間機を領空侵犯機と一緒に扱うというのはどうかと思いますが、一応そういう規則になって いるのです。

「スコーク77」は、民間機が何かに要撃の対象とされたということですから、自衛隊機としてはスクランブル発進をかけて被要撃機を誘導し保護する必要があ る――一応そういう理屈になっているのです。

そのとき、被要撃機は、自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。スクランブルをかけた自衛隊機が使用する言葉は次の4つです。

1.当方に従え
2.着陸のため降下せよ
3.この飛行場に着陸せよ
4.そのまま飛行してよい
これに対して、要撃された民間機が使用できる言葉は、次の6つです。

1.了解、指示に従う
2.指示に従うことはできない
3.指示を繰り返してください
4.自機の現在位置がわからない ←リクエストポジション
5.○○に着陸したい
6.降下したい
18時54分20秒に機長がいった「リクエストポジション」はこの中にあります。実は、31分21秒の時点で、尋常ならざる事態と判断した東京管制部は、 JAL123便に対して「日本語で交信してください」と指示しており、それ以降管制とはすべて日本語で交信しているのです。

無線交信は、万国共通、英語で行われているのですが、非常のさいには、パイロットの負担を軽くし、かつ意思疎通の妨げにならないように日本語での交信を指 示したのです。

しかし、なぜか、54分20秒のときだけは、「リクエストポジション」と英語で聞いており、これは自衛隊機との交信と考えられるのです。限られた言葉の中 で機長としては、それを英語で「リクエストポジション」と発信することによって、JAL123便の前後に自衛隊機がいることを管制に知らせたかったのでは ないかと考えられるのです。

もうひとつボイスレコーダーの分析でわかったことがあります。18時33分38秒〜34分52秒にかけて、日本航空の社内無線は、JAL123便を次のよ うに呼び出しているのです。

JAPAN AIR 123 JAPAN AIR TOKYO
How do you read?


「JAL123便、聞こえますか」という意味です。そのあと日本航空の社内無線は、36分00秒に「羽田に戻ってこられますか」と聞いています。機長自身 は東京管制部には「羽田に戻りたい」と伝えているのですから、社内無線に対しても「羽田に戻ります」と伝えるのが自然ですが、機長は社内無線に対しては、 次のようにいっているのです。

ふたたびコンタクトしますので、このままモニターして

おいてください−−−−−−−−−−−−−−−機長

これはどういう意味でしょうか。池田氏は、自衛隊機とのやりとりを社内無線に傍受させる意図でそうしたのではないかといっているのです。

18時46分の時点でJAL123便は、明らかに横田基地に着陸体制にあったといえます。JAL123便の動きを外部から見た場合、今まで北北東に向かっ ていた飛行機がぐるりと真東に機体を向けて高度を下げつつあったのですから、パイロットは機体をコントロールできると考えても不思議はないのです。

しかし、どうしても横田基地に降りられては困る事情が政府筋にあったのではないかという疑いがあるのです。したがって、JAL123便は墜落必至と見て、 横田基地周辺の市街地に墜落させるわけにはいかないという大義名分のもと、自衛隊機が御巣鷹山に強引に誘導したのではないかと考えられるのです。

   9.なぜ横田基地着陸阻止になったか


JAL123便が操縦不能に陥った真の原因は、演習用ミサイルが飛行機の垂直尾翼に衝突してその3分の2が失われたという仮説を中心にこのレポートを書い ています。

事故より14年が経過した時点で発刊された山崎豊子氏の『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)には、この演習用ミサイル衝突説はどのように扱われている のでしょうか。それとも無視されているのでしょうか。

実はちゃんと取り上げられているのです。事前調査には定評のある山崎豊子氏のことですから、あらゆる情報を集めて研究し、書いています。もちろん山崎氏 が、荒唐無稽な情報であると判断すれば無視するでしょうが、ちゃんと取り上げているのです。

それは、事故調の藤波調査官に突撃取材を試みる週刊日本の記者のシーンで取り上げられています。
本を読まれた方も多いと思いますが、その一部をご紹介しましょう。

それにしても当時の内閣官房長官は、あの藤波孝生氏――山崎さんは皮肉を込めて「藤波」という名を使ったのでしょうか。

「藤波調査官ですね」

再び、声をかけられた。今度は三十そこそこの男性だった。

「そうですが―――」

「週刊日本の記者です、ちょっと話を伺いたいのですが」

行く手を阻むように言い、名刺を差し出した。

(一部略)

「どのような話ですか」

「実は、事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な話を仕込みましてね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓 練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか。

(駅の)ホームで、記者は強引にコメントを求めた。

「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないですな」

「おや、おとぼけですか、それとも政府、防衛庁は、事故調査官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなのですかね」

嫌味な言い方をした。

「確たる証拠でもあるのですか」

「事故機が、最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛隊の護衛艦『たかつき』が、相模湾でちょうど演習中だったのですよ。現に事故の翌日、相模湾内 に尾翼の重要部分である垂直安定版が浮いていて、回収されたではありませんか」

−――山崎豊子著、『沈まぬ太陽(三)/御巣鷹山篇』より

どうでしょう。疑惑の追及者を週刊誌の記者という設定にしているのは、作家の山崎氏自身が、そこに多少なりとも「真実かも知れない」という気持があったか らこそそういう設定にしたのだと思います。

さて、JAL123便の「スコーク77」の発信を探知して自衛隊機がスクランブル発信したのは18時30分頃です。機種はF−4EJ戦闘機2機です。そし て2〜3分後にJAL123便を発見しています。F−4EJ戦闘機は、機種を識別する機能を持つコンピュータを搭載しているので、標的はレーダー・スコー プ上に表示されるのです。

そのときJAL123便は、焼津市上空で右方向に向かい、羽田もしくは横田基地に戻ろうとしていたのです。F−4EJ戦闘機はJAL123便の後ろから垂 直尾翼の状況を肉眼で観察し、次に前に出て、ダッチロール(機体左右の揺れ)とフゴイド(機体前後の揺れ)を減衰させる方法を指導しています。

しかし、このとき、JAL123便のパイロットは、左右のエンジンの出力調整だけで、ダッチロールとフゴイドをかなり減衰させることに成功していたので す。垂直尾翼の3分の2を欠いてこれをやることはきわめて困難なことですが、彼らはそれをクリアしつつあったのです。そして、横田基地への着陸に向けて高 度を下げていったのです。

2機のF−4EJ戦闘機は、このことを要撃管制官に報告しています。このとき、要撃管制官としては、横田基地への着陸を容認していたはずです。横田基地側 も何度も直陸許可を出しており救急体制も整えていたのです。

それがどうして横田基地着陸阻止に変わってしまったのでしょうか。ここからは、池田昌昭氏の推測にしたがって、記述していきます。

JAL123便を追尾したF−4EJ戦闘機の航空基地指令への報告の中に、欠けた垂直尾翼に巡航ミサイルの衝突痕跡――オレンジ色の塗料の跡があるという のがあったのです。自衛隊では軍事演習用の機器は、オレンジ色に塗ってあるのです。

photo4

この報告を受けた航空基地指令はがくぜんとします。そして、直ちにこの事実は上級指令者(航空幕僚)に報告されたのです。

その航空幕僚はそれをさらに上――自衛隊を指揮命令する立場の者に報告して、指示を仰いでいるはずです。

垂直尾翼にオレンジ色の塗料の痕跡が残っているということは民間機が軍事演習のターゲットになって操縦不能に陥ったことになり、日本国政府と自衛隊の立場 は完全に崩壊します。しかし、本来であれば、だからこそJAL123便に乗っている524人の乗客・乗員の救出を何としてでも行うべきなのです。

しかし、われわれは、この事件のあと、警察や自衛隊、各官庁の官僚たちの責任回避体質をイヤというほど見てきています。彼らがこういう状況に直面したとき どうするか。何よりも現体制の維持と責任回避を考えただろうと思います。

彼らは、もしJAL123便が横田基地着陸に失敗したときの被害の大きさ――5000人規模の死傷者を予測――を理由にF −4EJ戦闘機に対して、指令を発するのです。「JAL123便の横田基地着陸を阻止せよ」と。

   10.墜落場所は早くからわかっていた


JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。しかし、この2機の自衛隊機を目撃し た人物がいます。

その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑 惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。
この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。

このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42 分頃になる。

そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。

その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、今度はごく小さな機影で、北西に向 かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。「あれはさっきの飛行機[JAL123便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていっ た。この間5〜6分の出来事である。――角田四郎著、

『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊

2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側は、これに対して何もコメントしていません。
自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじ めて結びつけたのです。

ところで、自衛隊機はどのようにしてJAL123便の進路を変更させたのでしょうか。

自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずで す。

おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が 整っているからです。いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。

しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやり とりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。

このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断 するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。

これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に 入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。

ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。

この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がス クランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。

このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで 明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。

墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田 の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。

しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見て いましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。

しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍 機もその墜落地点の上空までは行っているからです。

当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。これを受けて防衛庁では、13日の午前 0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃で はないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。

もちろんその間テレビでは、相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、 いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。

こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそ、JAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないので す。次章からは、もっと驚くべき事実を出していきます。

   11.自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか



1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では、「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映して います。

1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C−130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。そのとき、同機のマイケ ル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便 の墜落現場を確認しています。番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。

あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさでした。燻る機体も炎も見えた。

−――アントヌッチ航法士

米軍C−130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な 墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。

午後8時30分になって、横田基地からC−130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH−1が、そちらに向かっている」 と知らせてきたのです。

やがて救難ヘリUH−1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。そのときC−130に横田基地からいきな り「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。

しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急 に帰還を命じたのです。時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。そして C−130は横田基地に帰還するのです。

横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。しかし、 このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。

このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。

やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助 かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえて いたのです。―――――――落合由美さんの証言

このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何という ことでしょう。米C−130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時 点で伝えられています。

それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっ ては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。

C−130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は、『週刊文春』1995年9月28日号でも次のようにいっています。

あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたときたまたま近くを飛んでいた。現場はす ぐに確認できた。墜落の2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが現場に着いた。あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっ ていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたのはその14 時間も経ってからというではないか。――『週刊文春』1995年9月28日号より。

これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。

「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」 ――――防衛庁
「当時の記録がないので、ノーコメント」 ――――米国防総省


そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。

「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」

これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。

「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下でき る」

その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。

   12.特殊部隊は墜落現場で何をしたか


JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50 人〜100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。1985年8月12日のことです。

ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊 です。しかし、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。

この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当 たります。とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。

午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号弾が上がったのです。
その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったと いうのです。

この時刻は、米軍のC−130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。つまり、米軍が去るの を待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。
彼らはそこで何をしたのでしょうか。はっきりしていることは、救助ではないことです。

その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたといいます。おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。どこ の国にもそういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。

もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっていることです。
したがって、墜落場所からそう遠くないところにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。

それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したことといい、墜落場所へ行く絶好の地点に、少なくとも50人を超える人数を 午後8時(墜落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感じるのです。

池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。

そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。
その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。まさに見殺しです。

いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。

JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮説を立てています。
それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかに は信じられない思いがあります。

しかし、仮にそうであったとすると、ツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、 「自衛隊を動かしている存在」−つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。

それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便 の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。

しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。もし、JAL123便が横 田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら 政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。

この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して機体がこなごな に破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。

そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。しかし、JAL123便の機長は、そ れでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。

「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦 クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。

生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であった としたら、これほど人の道に外れる行為はないといえます。

仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が 残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。

とくにコックピット内は、焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。いかに激し く地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎 放射器で焼いた跡のようであったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。

JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言

それでは、JAL123便に対して、どのようにしてミサイルが撃ち込まれたのでしょうか。そのあたりの状況について説明しましょう。

JAL123便が墜落する前に、次の3機の自衛隊機が周辺を飛行していたのです。

F−4EJ戦闘機・・・・・2機
F−15J戦闘機 ・・・・・ 1機

JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導したのは、2機のF−4EJ戦闘機です。しかし、JAL123便に対してミサイルを撃ち込んだのは、あらかじ め、在空していたとみられるF−15J戦闘機なのです。F−4EJとF−15Jは、ともに米国が開発した要撃戦闘機ですが、F−15JはF−4EJの後継 機です。

photo5

そのときJAL123便は、何とか山中に不時着しようとしていたと考えられるのです。山への不時着ですから、ほとんどは絶望的ですが、かなり多くの生存者 が出ることも考えての機長の判断であると思われます。機長をはじめとする操縦クルーは、何が起こっているのかが一番よくわかっていたと思われます。そのた め、1人でも多くの生存者を出したいと考えたのでしょう。

しかし、それを隠蔽しようと考える側からすると、少なくとも操縦クルーは生かしてはおけないと考えるはずです。そこで、F−15J戦闘機は、JAL123 便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射したのです。このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃され ないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射しています。

ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられます。ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通 し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕したのです。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら、真っ逆様に急降下したのです。これを確認して要撃 戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしています。

しかし、JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報があるのです。墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは「夕やみに “火の玉 ”」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっています。

マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の 透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。
――浦和市に住む住民の目撃証言

埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。
――長野県川上村住民

ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野、山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回して北東の方に行った。まもなく して、雷が落ちるようなバリバリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうちネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った。
――長野県川上村住民

垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです。しかし、「オレンジ色の閃光」「赤い炎」という証言があり、「パッ パッと光る」という証言まであるのです。ちょうど事故の日に、上野村の民宿に泊まっていた東京の会社員も「神流川上流の山あいがピカピカと二度光った」と 証言しています。

「パッパッと光る」と「ピカピカと二度光った」については、ミサイル弾がJAL123便に命中したときの閃光と考えることができます。ミサイルが空中で爆 発するときは、ミサイルに装填されている火薬が一挙に爆発するために、空気中の分子と猛烈に衝突を起こすのです。そのさいに空気と摩擦を起こし、ちょうど 稲妻に似た放電現象が起きるのです。それが、ピカッと目撃された閃光と考えられます。けっして、墜落したときの閃光ではないのです。
長野県南相木村中島地区の住人3人の証言に次のようなものがあります。

飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。
――長野県南相木村中島地区の住人3人

ここで「流れ星のようなもの」とは、明らかにミサイルの航跡であると考えられます。

機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということです。 520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれています。

とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっているのですから、遺体もただの肉片になって しまっているのです。山に激突したとはいえ、あれほどにはならない――と専門家もいっているのです。それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されて いないのです。生存者も機体後部から見つかっています。

それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれています。おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の 特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられます。

   13.生存者の一人・落合由美さんの証言


離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の 周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。

そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ−ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。 「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませ んでした。

音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。し かし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。

お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはあり ませんでした。耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りまし た。

「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座って いた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。ひっぱる と、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。

ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあっ て、あんがいスムーズにつけていました。

ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、 禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。
あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。

しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。 急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、 何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。

やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。

私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると、前方ス クリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ−ッと見えるだけでした。

その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。

匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたこ とでした。はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。 そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。
三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。

このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろ きょろあたりを見まわしていました。

あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベ ントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。 きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の 壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁の パネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。

そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなもので す。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほう には、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。

そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、ということはありませんでした。

もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに 気がつきました。壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということ はありませんでした。

このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころで はなかったのかもしれません。でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えてい ません。

いつ点灯したのか気付きませんでしたが、「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていた のかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおか しくないのですが、気がつきませんでした。

こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マ スクをして、しばらくしてからです。

「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。た だ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。

ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、 くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというの でもありません。

私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。

お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということ ではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表 情ではあったのです。

そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがあり ました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、その ままマスクをしていました。

ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけ てください」という指示を出しました。その指示がどこからきたのか、わかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュ ワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の 場合は、それはありませんでした。ライフ・ベストをつけるように、という指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、 スチュワーデスが着用して、このようにつけるんです、と教えながら、座席をまわることになっています。今度も、そうしていました。

前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救 命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。

私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。

しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私 の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたので す。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えて、Kさんが 救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださった のです。

私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらい の左右のお客様を指示してまわりました。

しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのです が、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでし た。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。

救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安 全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。

こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてし まった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿 勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさん も、「ふくらませないで!」と叫びました。

機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、 固まるようになりました。

私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されました。
「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合で も、男の人がいろいろ質問していました。

スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も 受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。
そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用 の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。

子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりする ことはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。

全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュ ワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。それと、「管制塔か らの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと 思います。落着いた声でした。

揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。その ときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示する のですが、そんな時間的余裕はありませんでした。

私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつ かむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張さ せるのは、衝撃にそなえるためです。こういうときは、「・・・してください」とは言いません。

お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける 安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。

安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってく ださい」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。

そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くで した。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にき たとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたま ま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというもの ではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と 叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。

そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱら れるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。 まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつつ”けるしかけるしか ない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと 思います。「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどります、というアナウンスが ないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でも、なかっ た。

衝撃がありました。

衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じで す。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いも の、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。

衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、 と思ったのは、このときでした。

すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。
体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛み はなく、もうぐったりしているという感じです。

目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知ら されたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、 ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思い ます。

呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く 楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛 めないのです。

墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体から です。

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。

次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼん やり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさん だと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の 上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったので、どかそうと 思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れまし た。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。
冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。 まだ何人もの息遣いです。

それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私は ときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえまし た。さかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。

私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血し ている感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。
吐いたりもしませんでした。

やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、 と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」 「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。

このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。 父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もし ものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っ ていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しない で、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていき ました。

気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出して みたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。

あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。

風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。
はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあ かるい光です。

すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりませ ん。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。

そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救 出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。

体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのです が、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげ られなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」っ て。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えてい ました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこから きっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議 で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。

たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。
全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったん だと、また感じました。

天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と 考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていた せいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。

救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいか ら」といいました。

(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)

落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で123便に乗り合せていました


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図の右上あたりに、Now Loarding と赤色の横バーが伸びていきます。100%になるまでそのままお待ちください。
一度、ローディングすると2回目の再生はすぐに始まります。コンピュータ内部のキャッシュデータが削除されないかぎり )


JAL123便飛行経路
※ファイルが消されるのでリンク先を変更しました。

   ■ あれから26年、いつまでも隠せない 〜日航ジャンボ123便、墜落の真相 --> こちら
   ■ 「こんな不正があるわけがない」 沈まぬ太陽 〜JAL社内報で批判 --> こちら
   ■ 大惨事の原因を安全管理に結び付けたがっている 〜日航ジャンボ機墜落 --> こちら
   ■ 日航ジャンボ123便、墜落 〜あれから25年 --> こちら
   ■ 御巣鷹 日航機墜落21年 JAL123便 事故だったのか!? --> こちら





































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